暖かかったよね

今日は、暖かかったよね。

里親と里子の話題か。お金の工面をどうするのかという疑問が第一に浮かぶのは荒んでいるのかな。

労働政策審議会ってのが何をやってるのかサッパリ分からん。しかし、平田容疑者の逮捕というか、昨年末頃に苫米地英人が「洗脳原論」をパラパラと読んでいた。その上で、今回の報道をチラチラと眺めていた。うーん、これは確かに嫌だなぁ。私はなんたら教とか、かんたら宗とかいったアレに縁近い生活をあまり過ごしていないが、報道で抽象的な宗教用語がポロッと零れただけで脳内から麻薬物質がドバーッと放出される(元)信者さんとかは絶対にいっぱいいるだろうなと思ったぞ。

内向きと言うよりも、自向きなんだよなぁ。

「国家は信用できない」という表現、最近よく耳にするような自惚れがあるけど、これは国家が信用出来ないというよりも、いや半ばそうなのだろうけれどもさ、国家を支える中間的な共存帯を支える力もみんな残してないだけだわなと感じる次第だ。

正義でも道徳でもお釈迦様でもいいけど、なんか信じてみろと思うけど、上の話題じゃないが、根本的に騙されるのは駄目だよねぇ。

しかし、歴史物語を如何に楽しむのかというのは難しい話題なのではないか。私は司馬遼太郎なんかは『梟の城』か『燃えよ剣』くらいしか面白いと思わなかった。半村良を歴史物語と読んでいいのか分からないけど、いや、そういえば歴史物の半村良はあんまり読んでないけど、はーん。

いや、教養のあるひとからすれば前提からしてそうなるのだが、どこに物語を差し込んでいるのかを理解してそれを楽しまないと、言い方が悪いけど、意味が無いどころか害悪にしかならないかしら。歴史が物語だというのは置いておいてさ。

釣りにマジレス乙 ってなもんだが

戦後生まれのアジア人が、日本軍に殺害された被害者の声を想像して代理できるように、
宇野氏も70〜90年代当時を生きた日本人として「ARB」を受容し、語ることができる。

まるで宇野さんが70~90年代当時には生きていなかったみたいな表現の仕方だ。当然、そんな訳はないので、つまるところ「個別の事実よりも、全体として過去がどのような感じであったかを再構築する想像力が重要でしょう」(元記事参照)ってところが味噌なんだろうけれど、じゃあご自慢の想像力に拠るところの御説明が破綻してちゃ意味ないねーという堂々巡りは素晴らしい人類の英知ですね。