メタル人間の怪と対話の花

なんでか知らんが、「ダブルオーガンダム」のことを考えていたんだが、あの映画のモチーフっていうのはどう考えても『機動戦艦ナデシコ』の映画を踏襲しているというか、意味付けがあるように思える。周辺事情としての接点とか、あるのかは知らん。

なんちゃらっていう生命みたいなのが理解し合えない対象としての究極系だとしてさ、それを踏破したところにマリなんだっけ、マリーナに会いに来るという象徴ってのは裏を返すと、性別や身分でもないが役割というか言ってみれば立場の違う人間同士の分かり合いみたいなのってのは宇宙人と交流する以上に難しいんだよという感じだ。

このままだとナデシコ関係ねーな。

うろ覚えだけど、アキトが去る必要ってのがよくわからんのだが、何らかの事情で男女が、いや別に男女じゃなくてもいいんだけど、すれ違っていく人間たちというのは、どうしてメタルなのか。メタルって言いたいだけだよ。

メタルクウラというのが居たが、つまるところメタルな人物像というのは、ある程度の疎通のなさを象徴するイメージが少なからず多からず共有されているように感じる。ターミネーターだろうか。

ダブルオーガンダムに返せば、そういったメタルな人間を最後に再び交流の場に立たせるというのは、なんちゃらリズムでいうと異化効果を狙ってると言えるだろうか。この異化効果を吟味しないと味わえない味わいがダブルオーガンダムの映画のラストにはあったと言えるか。

しかし、対話といえば花なのか。これはいやらしい。

終わり。